My favorite Three Kingdoms

三国志に特化したコラムをやりたいという思いから開設しました。演義や正史に拘らず楽しみながらやっていきます。

【連載21】食べ物の恨みは恐ろしい

『食べ物の恨みは恐ろしいと』という言葉があります。例えば、おやつ用に食べる為に冷蔵庫に入れておいたチョコレートのお菓子を、勝手に家族に食べられてしまい、それを何ヶ月経っても忘れられなかったという方もいるのではないでしょうか?人間にとって食べる事は生きる事といっても過言ではありません。人間の欲望には、お金持ちになりたい、良い家に住みたい、出世したい、美しくなりたい等、数え上げればきりがありませんが、それらの欲望も腹が満たされているからこそ湧いてくるのです。人間の本能には3大欲求(睡眠欲・食欲・性欲)が備わっていますが、恐らく腹が減り過ぎていては、まともに眠ることすらできないのではないでしょうか?そして、戦場の指揮官にとって1番頭を悩ませる仕事とは、軍隊を統率する事でも無く、勝つための作戦を練る事でも無く、兵士達に食事を摂らせて養っていく事だと言われています。

 

西暦197年、曹操が群雄の1人である袁術(えんじゅつ)という人物を討伐する為に寿春(じゅしゅん)という地域へ赴いていました。

ところが、援軍からの食料輸送が滞ってしまい、曹操軍は深刻な兵糧不足に陥ります。

ある日、食糧調達の責任者が曹操のところに相談へ向かいました。「殿、このままでは我が軍の兵糧は1週間も保ちません。いかがいたしましょう?」

すると曹操は「お米を計る升を小さなものに変えたらどうだ?そうすれば、あと4日〜5日ぐらいは保たせる事ができるだろう。」と答えました。「しかし殿、そんなことをすれば兵士達の士気は下がり、やがて暴動が起きませんか?食べ物の恨みは恐ろしいとも言いますから…」

「案ずるでない。その時は俺に考えがある。」

食糧調達責任者の不安をよそに曹操はそのように指示を出して、翌日からお米を計る升を小さなものに変えました。

すると食糧調達責任者の不安が的中したのか、兵士達の間から不満の声が上がり始め、士気も著しく下がってきました。

「殿、やはり兵士達の士気が下がってきました。このままでは暴動が起きてしまい、もはや袁術の討伐どころではありません。殿、いかがすれば…」

すると曹操は思いもかけぬ事を口にしたのです。

「実は、そなたからどうしても欲しいものがあるのだが。」「殿、それは何でしょうか?」曹操は一呼吸置いてから、こう言いました。「そなたの首である。」

調達責任者は、一瞬何の事かわかりませんでしたが、やがて顔が真っ青になり激しく震え出しました。「殿!!何を言われるのですか!私が一体何をしたと言うのですか!!」

すると曹操は「この危機を脱するには、もはやこうするしか方法が無いのだ。そなた1人が犠牲になれば我が軍は救われる。すまん!犠牲になってくれないか。。そなたの家族は、俺が何不自由無く過ごせるように一生面倒を見てやる。誠に申し訳ないが犠牲になってくれ。」

「殿!それはあんまりです!!どうか命だけは助けて下さい!お願いですから助けて下さい!!」しかし曹操は「誰か、この者を外へ連れ出して斬れ!」と言い、調達責任者を処刑して、その後、全軍の前に晒し首としたのです。

そして曹操は兵士達に向かって、こう言いました。「最近は食事の量が減って不満に思っていた兵士達も多かったであろうが、実はこの食糧調達の責任者が米を横領していた事が判明した。そしてこのように処刑をして晒し首としたのである。本当に申し訳なかった。今まで君たちには不憫な思いをさせてしまった分、今夜はありったけの飯と肉を喰い、たらふく酒を飲むが良い!ただし、明日の戦では何が何でも袁術の本拠地を落とすのだぞ!わかったな!」

兵士達のストレスは食糧調達責任者に向けられた事によって解消され、日頃から飢えていた兵士達は一晩でほぼ全ての食糧を平らげてしまいました。しかし士気はすこぶる高まり、翌日には一気に袁術の本拠地を落として勝利し、見事に危機を脱する事ができたのです。

 

今の社会で言うところの左遷やリストラどころではない理不尽で卑劣な策ではありますが、曹操は『食べ物の恨みは恐ろしい』という人間の特性を上手く活かしたと言えるのではないでしょうか。

【連載20】ベッキー氏と川谷絵音氏の件

相変わらずですが、芸能人のスキャンダルが後を絶たない気がします。昔は、テレビに出ている人達に憧れていた時期がありました。もちろん今でも素敵だと思う俳優さんや女優さんはいますが、最近ではテレビを観る時間もめっきりと減り、わざわざ芸能人のスキャンダルに一喜一憂するような事もありません。

それでも今回あえて取り上げるのは、ベッキー氏とミュージシャンの川谷絵音氏の不倫問題です。

これは2016年の事ですが、覚えている方も多いのではないかと思います。ベッキー氏は好感度の高いタレントさんでしたので、彼女の不倫は非常に衝撃的なニュースとして当時話題になりました。

その不倫が発覚したのは、二人のLINEの中身が外部に漏れてしまったからなのですが、それを外部に漏らした人物が結局のところよくわかっていません。

二人と近い人物(川谷氏の奥さん)が最有力と言われているようですが、ともかく二人の不倫に憤りを感じて、そのような手段を選んだのではないかと思われます。

 

西暦200年、三国志の中でも天下分け目の戦いとして有名な『官渡の戦い』で、袁紹(えんしょう)軍約70万と曹操軍約20万が対峙しました。

当初は袁紹曹操に比べて圧倒的な兵力を誇っていたので優勢と見られていたのですが、それ以上に曹操の戦略と決断力が袁紹を上回り、その結果曹操が大勝利を収めました。

ある日、曹操袁紹軍から奪い取った戦利品(勝利して相手から得られた品物)を調べてみると、沢山の手紙が出てきたのです。護衛の一人が手紙を見てみると、それは曹操から寝返って袁紹に降伏するという部下の裏切りの手紙でした。

護衛は、「殿、これを見て下さい!これは殿に対する裏切りです。許せません!この手紙を書いた者を今すぐ処刑しましょう!」と曹操に手紙を渡します。ところが曹操は手紙の中身を見ようとしません。そして、その手紙の山を燃やすように命じました。

護衛が「何故裏切り者を調べて処刑しないのですか?」と尋ねたところ、曹操は、「最終的には俺が勝ったとは言え、当初は袁紹の大軍を前に、この俺も勝てるかどうか不安であった。大将の俺でさえ不安になるのだから、部下達が怯えて寝返ってしまうのは当然である。」と言い、手紙の山を見ずに燃やして、袁紹側に寝返ろうとした部下全員の罪を許しました。

それを聞いた配下の部下達は、曹操の寛大なる処置に心を動かされたのです。

 

もし、ベッキー氏と川谷絵音氏のLINEの中身を漏らした人物が、この曹操のような寛大な処置(LINEの中身を漏らさずに削除)を取っていたとしたら、この二人の人生は、今とは大きく異なっていたかもしれません。それが二人にとって、今よりも良い結末になっていたのかは知る由もありませんが。

【連載19】呉下の阿蒙にあらず

私は建設業界に勤めているのですが、以前から職場の上司にスキルアップとして国家資格の勉強を勧められています。その資格は、今の業務を遂行する上で決して必須ではありませんが、実務だけでは得ることが難しい知識を増やすことで自己啓発にもつながりまし、それがこの先も社会を渡り歩く上で自分の貴重な武器にもなります。ただ、大学受験以来、試験勉強というものから遠ざかっているのと、毎日仕事をしながらの勉強はそう甘くはありません。

まぁ本来ならば勉強は言われなくとも自主的にやるべきですね…(笑)

 

三国志で大変勤勉な登場人物といえば『呉』の呂蒙(りょもう)という人物がいました。呂蒙はもともとは武勇一辺倒の肉食系男子だったのですが、主君の孫権から「これまで通りに武勇を磨くのも、もちろん大事ではある。しかしこの戦乱の時代を生きていく為には、武勇だけでは少し物足りない。これからは書物を沢山読んで、先人の知恵を吸収することも必要であるぞ!」と教養の大切さを諭されました。それがきっかけとなり、呂蒙は素直に勉学に励んだのです。

ある日、上司である魯粛(ろしゅく)という人物が呂蒙と話をしていたところ、彼の言葉遣いや見識など、これまでとの変わりように『呉下(ごか)の阿蒙(あもう)にあらず!』と思わず唸ったのです。つまり「これは私が今まで見てきた、やんちゃ坊主だけの蒙(もう)ちゃんではないぞ!手強い!」と感心しました。それに対して呂蒙は『士別れて三日、即ち更に刮目(かつもく)して相待すべし!』と返しました。これは三国志の中でも有名な故事成語です。つまり「日頃から鍛錬をしている者は、三日も会わなければ見違えるほど変わっているのさ!テヘヘ…」と答えたのです。RIZAPではありませんが、まさに結果にコミットしたという事です。

呂蒙は、よほど熱心に勉学に励んだのでしょう。

また孫権は、呂蒙以外に蒋欽(しょうきん)という配下の武将にも同じように勉学を勧めたと言われています。

呂蒙はその後、三国志でも重要な拠点と言われている荊州という領土を管理していた関羽を策略で倒し、それによって劉備諸葛孔明の天下統一という野望を打ち砕くのです。主君の孫権に諭されて勉学に励んだ事によって、見事に後世に語り継がれるような結果を残しました。

 

仮に私が国家資格を勉強し取得をしても、直ぐに結果に結びつけるほど今の業界は甘くはないでしょうし、また上司も本当に私の成長を願って資格試験の勉強を勧めてくれているのはわかりません。しかし主君の期待に応えて努力をし、そして結果を残した事によって勉学の大切さを教えてくれた呂蒙は、まさに我々サラリーマンの星として輝いています。

【連載18】劉備の部下掌握法

劉備の部下掌握法について考察をしてみます。

『魏』を建国した曹操は宦官(かんがん 皇室のお世話をする去勢された男性のこと)の孫ではありましたが、官僚出身という事もあり、天下取りに乗り出した時点ではそれなりに恵まれた身分でした。また『呉』の孫権も、父親の孫堅と兄の孫策が国の基礎固めをした後を引き継いだ3代目の君主という身分で、これまた有利な立場ではありました。ところが劉備は、自らの土地も人脈も地位も無く、田舎で草鞋(わらじ)を折って生計を立てているという身分でした。

曹操孫権に比べると、劉備を取り巻く環境は格段に厳しかったと言えるでしょう。

そんな育ってきた環境も影響しているのか、三国志演義での劉備は、情の深い、誠意のある、非常に志の高い人物と言われています。

まるで『どんな海よりも深く、どんな山よりも高い』といった誠意を示す事によって相手の心を開かせ、優秀な人材を次々と自分の配下にしていきました。さらに、劉備にしかない人間的な魅力にたくさんの部下や民衆が惹かれていったのです。

 

例えば、強烈な個性の持ち主である関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)という武将がいたのですが、この劉備と出会ったとたんに、普通の人には無い『何か』を感じて心を掴まれてしまい、「もう俺たちは死ぬ時も一緒なのさ!」とまで言わしめるというこの凄さ。劉備はそれだけ人を惹きつける人間的な魅力があるという事がわかります。

その後、彼らと共に戦場を駆け巡りながら天下取りに乗り出していき、かれこれ20年もの間、模索をしていくのですが…いつまで経っても流浪の民

 

劉備はやがて、筋肉自慢の部下だけでなく、知恵がある優秀な参謀を自分の部下にする必要があると考えるのです。

そんなある日、【連載17】でも記載しました諸葛亮(孔明)という賢人がいると聞きつけます。

しかし、いくら賢人で名高いとは言え、まだ何一つ実績の無い、年齢も劉備より20歳年下のヒョッ子同然の若者です。側にいた関羽張飛が「ホンマに大丈夫かいな?」と疑う中、それでも劉備は自ら、その諸葛亮の家を三度も訪ねるのです。そして、「お前のその知略で、どうかこの腐敗した国を救ってくれ!頼む!俺にはお前が必要なんだ!」と心からの誠意を示します。感激した諸葛亮は、生涯に渡って忠義を尽くす事を誓いました。

これは故事成語にもなっています『三顧の礼』というエピソードです。

目上の人が、ある人物(目下の人)を信任して手厚く迎えるという意味で使われています。

つまり、三顧の礼で迎えられるという事は、とても誇るべき事なのです。

例えばプロ野球では、シーズンオフの時期等に監督が目をつけている選手と交渉をする際、「星野監督自らが金本選手を訪ねて、三顧の礼を尽くしました。」といった使い方をします。

 

人間は感情を持つ生き物ですから、誠意を尽くされると、誰しもが心を動かされるのではないでしょうか。

これが劉備の部下掌握法なのです。

【連載17】ライフプラン

最近は、これからのライフプランについて考えていく必要性を感じています。

本来ならば、早くから考えておくべきなのかもしれませんが、日常の生活を過ごしている中では、なかなか意識できないものです。また、考えていたとしても、実際には自分が思い描くようにはならない事のほうが大半なのかもしれません。

私はこれまで、幸いにも大病を患うような事はありませんでしたが、20代後半から30代にかけての約10年間はリストラ、義理の親とのトラブルによる離婚。それがきっかけで自分の子供とも面会が叶わなくなり、さらには2度の倒産と続き、周りの友達と比べて何事も出遅れたような思いがありました。

それでも『常に焦らず腐らず』をモットーにして、自分なりにコツコツと歩んできた事で、自然と親しくしてくれる親友や恋人にも出会えて、また今の職場にも勤める事ができています。

ライフプランというよりも、自分のライフスタイルで今があるという状態です。

 

三国志劉備は、衰退した漢王室の復興を掲げて天下統一の野望を抱いていましたが、旗揚げから20年が経過しても未だに流浪の身という有様でした。

同時期に旗揚げした曹操や先代からの後継者である孫権は、既に国家の基盤を形成していたのです。

もちろん劉備の中で、ライバルから大きく出遅れたという思いでいっぱいだったでしょう。

しかしそれでも劉備は、自分の志を決して諦める事はなかったのです。

ある日、劉備はそんな自分の志を実現する為のプランを提示してくれる人がいると聞きつけました。その人の名は諸葛亮(孔明)

劉備は、わらをも掴む思いで諸葛亮の元を訪ねて頭を下げました。

そこで諸葛亮が提示した大戦略は『天下三分の計』というものでした。

諸葛亮曰く「劉備殿が今の状態でいきなり天下統一を目指すのは絶対に無理です。そこでまずは、荊州(けいしゅう)という土地を確保して下さい。荊州を治める劉表という君主は、恐らくもう先が長くありません。民衆も新たな君主を求めていますので、劉備殿の人徳があれば大丈夫です。また、荊州は土地が栄えていますので、ここを押えておくと戦略上とても有利になります。

その荊州を治めた後は、西へ向かい益州(えきしゅう)という土地を獲るのです。

益州の君主の劉璋(りゅうしょう)は暗愚と言われており、民衆の不満も高まっております。

こちらも劉備殿の人徳があれば民衆は必ずついて行きます。また、この益州という土地は天然の要害に囲まれており、攻め込まれ難いという利点もあります。

このように荊州益州を基盤にしますと、中原(中国大陸の北半分)を支配する曹操と、江東(中国大陸の東側)を支配する孫権と共に劉備殿は第3の勢力として渡り歩く事ができます。そして次に、孫権と同盟を結んで曹操と対抗して下さい。劉備殿が今後生き残る為には、孫権とは絶対に争わずに仲良くするのです。

『東は孫権と和し、北は曹操を防ぐ!』これを肝に銘じて下さい。このようにして巨大な曹操に当たれば、必ず劉備殿の天下が見えてきます!」

ライバル国の力関係、攻めとる国の情勢、その土地の利便性などを分析して、劉備が流浪の身から一国の皇帝になる為に考え出された壮大なるプランなのです。これは、諸葛亮劉備の為に提示したライフプランのように私は思いました。

そして、このライフプランを諸葛亮は実践してみせたのです。

 

私も「これからこのようにしていきたい。こうすればもっと楽しく過ごせるのでは?」といった思いを大切にして、それを自分のライフプランに落とし込めるようにしていきます。

【連載16】相手のイメージ

学生での新学期の時や、就職して新しい職場に来た時、もちろんそこから新しい人間関係が始まります。

初対面で、最初はお互いの事がよくわからないので、相手もそれなりに気を遣ってくれたり、緊張感を持って接っしてくれる人が多いのですが、やがて一緒に居る時が長くなるにつれて「ああ、この人って、こういう性格なんだ。こんな考え方をする人なんだ。」とお互いの事がわかり始めると、いつの間にか相手の態度が変わっていて、「あれれ?今まで親しいと思っていたのに…」という経験をした事は無いでしょうか?

人は、相手に対するイメージが出来上がってしまうと、どうしてもそれに縛られてしまい、それをなかなか覆えす事ができないものなのです。

三国志には、その人間心理を利用して意表を突いた策が用いられています。

 

呉の二代目君主である孫策に仕えた名将に、太史慈(たいしじ)という人物がいました。

ある時、北海国(位置的には朝鮮半島の近く)の宰相だった孔融(こうゆう 孔子の子孫)が、黄巾族の大軍に包囲されるという大ピンチに陥った事がありました。

太史慈は、過去にその孔融から恩を受けた事があったので、何とかして助けてあげたいと思っていたのですが、なにぶんにも多勢に無勢。

助かるためには、近くに駐屯していた劉備に救援を求めるしか方法がなかったのです。

「よし、とりあえず劉備にメールかLINEでもしておいて、返信を待ってみるか。」なんていう時代ではありません。

この大軍の包囲網を何としてでも突破するしかないのです!

そこで太史慈はある作戦を実行に移します。

黄巾族の大軍が、完全に城を包囲しているにも関わらず、部下二人を従えて城門を開き、外へ出ていきました。

「むむ!やる気か?」と黄巾族の大軍たちに緊張が走りましたが、それをよそ目に太史慈は、馬から降りて標的を地面に突き刺すと、黙々と弓矢の練習を始めたのです。 

黄巾族の大軍たちが怪しげにその様子を見守っていましたが、太史慈は数分ほど練習をした後、そのまま城の中に帰っていきました。

その翌日も、そのまた翌日も、太史慈は大軍の兵たちが見守る中、黙々と弓矢の練習を始め、数分もするとそのまま城の中に帰っていきました。

このような状態で包囲が長引いた為に、黄巾族の大軍は緊張が緩みだし、やがて太史慈への警戒心も薄れていきました。

まさにこれこそが太史慈の狙いだったのです!

その翌日も、いつものように太史慈は城門を開けて弓矢の練習を始めました。

既に黄巾族の兵たちは「どうせまた弓矢の練習をして、城へ帰るんだろ??いくらなんでも、この大軍の包囲を突破するなんて無理に決まってるんだって…」とすっかり思い込んでしまったのです。

その時、「今だ!!」と突如、太史慈は馬に飛び乗り鞭を入れると、一気にその包囲網の中へ飛び込んで行きました。

「あ、あわわわ、、、」と完全に不意を突かれた黄巾族の大軍は、対応が遅れた為に取り逃がし、太史慈は見事に大軍の包囲を突破して劉備の元へ駆けつけて救援を求める事が出来ました。

 

太史慈が黄巾族の大軍に植え付けたイメージをまとめますと、

太史慈は、毎日弓矢の練習をするのが日課である。

太史慈は、この大軍の包囲を突破なんてできるわけがない。

黄巾族の大軍は、この二つのイメージに縛られてしまった為に、いとも簡単に取り逃がしてしまったのです。

もし、このイメージに縛られなければ、きっと太史慈もなす術が無かったでしょう。

 

前述の人間関係においても、相手のイメージに縛られる事なく、ありのままを受け入れてくれた人こそが、きっとあなたの本当の親友であり、そして伴侶であると私は思います。

【連載15】英語長文問題のコツ

三国志の『魏』を建国した曹操は戦の天才と言われていました。配下にも有能な軍師を数多く抱えており、彼等の献策を取り入れながら状況に応じて水攻め、兵糧攻め無血開城等、あらゆる方法を駆使して様々な群雄を打ち破ってきました。

その名を挙げてみると「張繍(ちょうしゅう)」「呂布(りょふ)」「袁術(えんじゅつ)」「袁紹(えんしょう)」「劉琮(りゅうそう)」「馬超韓遂(かんすい)の連合軍」「張魯(ちょうろ)」等…

その中でも、西暦200年に袁紹と対戦した官渡(かんと)の戦いは、三国志の中でも天下分け目の戦いと言われています。

私は、三国志官渡の戦いの場面を読んだ時、高校受験の事を思い出していました。

 

私は中学生の頃、真面目だったのか勉強をする事が好きでした。今思うと不思議なのですが、机に向かって勉強をする事が全然苦にならなかったのです。

ただ、どうしても苦手だったのが英語の長文読解問題でした。

英語の長文を目にすると圧倒されてしまい、そうこうしているうちに時間だけが過ぎて、焦りが生じて文章を理解する事ができない為、まともに問題を解く事ができなかったのです。

「トホホ、英語の長文問題さえ攻略できれば、もっと偏差値を上げる事ができるのに…」

そう思い悩んでいた私は、関西の名門大学と名高い関西学院大学に通っていた家庭教師の先生に相談をしてみる事にしました。

その先生曰く、「英語長文問題のコツは、文章全体を読むのではなくて、文書の段落ごとに分けて読む事だよ。英語の長文問題は、段落が変わると、文章の内容も変わるというパターンが多いんだ。だから、まずは段落が変わるまでの文章をしっかりと読む事!そして、それが読み終わったら次の段落の文章を集中して読む。これを繰り返すと、長文の最後まで辿り着くよね?決して長文全体を目で追ってはダメだよ!必ず段落ごとに細かく分けて読むんだ!わかったかな?よし、早速今日から段落が変わるまでの文章を、早く正確に読む練習を繰り返しやってみよう!」

さすがに関関同立…私はこのアドバイスを忠実に実行すべく、何度も繰り返し長文問題の練習をしました。

その結果、英語の期末テストで90点以上を取る事ができたのです。「やったぁー!!遂に英語長文問題を攻略できたんた!」と実感できました。

 

西暦200年、三国志官渡の戦いでは、袁紹軍約70万に対し曹操軍は約20万と言われていました。袁紹は圧倒的に有力な状況であり、曹操は真面にぶつかっては勝てる筈がありませんでした。

そこで曹操は、陽動作戦で袁紹軍を揺さぶり、巨大な兵力を分断させる事によって袁紹軍の主力部隊と補助部隊を切り離して攻略。それでも兵力で勝る袁紹軍に長期戦に持ち込こまれて苦戦を強いられますが、どうにか持ち堪えて、やがて兵糧攻めという弱点を突いて勝利を収めました。

 

巨大なものに立ち向かう時や、仕事で大規模なプロジェクトに携わる時など、真面にぶつかると圧倒されて潰されてしまいます。

そういう場面では、まずは落ち着いて「重要なポイントは一体何なのか?」と要点を絞る事を考えると、巨大なものが頭の中で細かく整理されて攻略できると思います。

これから先、いろんな場面で取り入れる事ができる考え方ではないでしょうか。