My favorite Three Kingdoms

三国志に特化したコラムをやりたいという思いから開設しました。演義や正史に拘らず楽しみながらやっていきます。

【連載14】曹操の部下掌握法

曹操の部下掌握法について考察をしてみます。

三国志で最大の勢力を誇った『魏』を建国した曹操ですが、彼は元々官僚の出身という影響から、徹底した能力主義の政策を行なっていました。

当時の中国は、『儒教』という孔子の教えが絶大的であり、簡単に言えば「親や年長者や先生を敬いなさい!」というのが基本的な教えでした。

今では当たり前のように言われている「親孝行をしなさい!」とは儒教の教えであり、このことから日本でも儒教の影響力は大きいことがわかります。

ところが曹操は、たとえ過去に家族や年長者を殺害した人物や犯罪者であったとしても、能力さえあれば自分の部下として採用しました。

当時の中国では、とても考えられない事だったのです。

 

そんなエピソードとして曹操は、西暦197年に宛城の戦いで張繍(ちょうしゅう)と対戦をしました。

その戦いは当初、張繍曹操に降伏する形で収束したかにみえたのですが、実は張繍の軍師だった賈詡(かく)による計略で、偽りの降伏だったのです。

すっかり油断をしてしまった曹操に、賈詡は奇襲を仕掛けたため曹操は大敗を喫し、長男の曹昂(そうこう)と部下の典韋(てんい)、甥の曹安民(そうあんみん)を失いました。

通常ならば、自分の長男や身内、また大切な部下を殺した賈詡を許すことなどできないはずです。

ところが曹操は、そんな計略を仕掛けた賈詡の才能を絶賛し、後に張繍を降伏させてから、賈詡を自分の軍師として採用したのです。

自分の長男や身内、そして大切な部下を殺した人物でさえも、能力さえあれば躊躇わずに自分の部下にする!この常識にとらわれない徹底した能力主義によって、自分の才能を思う存分に発揮したいという人材が曹操の下に沢山集まりました。常識だった『儒教』の教えにもとらわれない、これこそが曹操の部下掌握法です。

そして、それが強い組織を作り、やがて三国志最大の勢力を築くに至ったと言われています。

 

曹操のような徹底した能力主義も必要ですが、かといって中途半端では何事も成す事はできないのです。

私は曹操みたいには絶対になれません。もちろん尊敬に値する面もたくさんありますが、私は曹操の生き方とはまた違った形で、幸せの在り方を模索していこうと思います。

【連載13】面接官の採用判断基準

とある記事を読んでいますと、就職における採用面接官が新入社員に対して特に重視している点は何かという事が記載されていたのですが、それによりますと、

① コミュニケーション能力

② 主体性

③ 協調性

以上の3点が挙げられていました。

私のような、そこそこ社会経験をしている団塊ジュニア世代ならば、企業からこれぐらいの事を求められるのは仕方がないのですが、社会経験が全く無い新入社員に対して、この3点に拘って面接官が採用活動をしているならば、これから開花していく彼らの才能の芽を摘み取ってしまう可能性が非常に高いと思うのです。

 

三国志にはいろんな能力や性格の人物が数多く登場します。

魏の人材ならば、荀彧(じゅんいく)や郭嘉(かくか)、賈詡(かく)のように戦場に出て戦う事はできないが、帷幕の中で戦略や計略を立案するのに長けた人物。

典韋(てんい)や許褚(きょちょ)のように、戦略や計略を立案できないが、曹操への忠義に厚く、曹操を護衛するためならば死をも恐れない人物。

また、鄧艾(とうがい)という人物は、生まれつき吃音症に苦しみ、まともにコミュニケーションも取れませんでしたが、彼の才能を役人から見出されて、後に富国強兵や蜀の攻略に貢献をしました。

それぞれの人材の特性を活かし、そして補い合って曹操は組織(魏という国家)を築いていったのです。

 

採用面接の時、新入社員ならば緊張して言葉が出て来なかったり、しどろもどろになる事だってあるのは当然です。

そんな時、面接官が「この新人君は覇気が無く、コミュニケーション能力に乏しいなぁ。はい、ざんね〜ん!」と言って切り捨てるのではなく、面接のプロとして、その新入社員の良さを会話の中から引き出してあげて、会社にとってどこに適した人材なのかをよく見極める必要があるのです。

たとえ、大人しくて主体性が低い新入社員であっても、言われた事を真面目にコツコツとこなしてくれる人材なら、会社にとって必要不可欠なのです。

そんな新入社員の良さを会話の中から引き出せないようでは、その面接官のコミュニケーション能力の質を疑ってしまいます。

以前、私が失業した時に採用面接官から一方的に言われた言葉を、今でも時折思い出します。

「うちの会社はねえ、イチロー松井秀喜レベルの人材しか興味無いんだよ。正直に言うと君、期待外れなんだよ。」

今でもこの会社が、まともな組織として機能できているのかは知る由もありません。

【連載12】孫権と周瑜の部下掌握法

三国志の呉の君主である孫権と、その参謀を務めていた周瑜(しゅうゆ)の部下掌握法について考察をしてみます。

 

まず周瑜ですが、彼は孫権のお兄さんで呉の二代目の君主であった孫策という人物と深い親交があり、周瑜孫策は苦楽を共にして、呉の国の礎を築いていきました。

そんな周瑜は、孫権にとっても兄貴のような存在だったのです。

ある日、孫策が何者かに暗殺されてしまい、孫権が若干19歳で急遽孫策に代わり三代目として君主を引き継ぐ事になりました。

ところが当初孫権は、若くて経験も浅かった為に、先代の君主から仕えてきた古株の将軍達に軽く見られて、なかなかリーダーシップを取る事ができませんでした。

古株の将軍達からすれば、年齢も経験も自分達の方が上なのに、この若僧に頭を下げるなんて面白くないという気持ちがあったのでしょう。

その様子を日頃から見ていた周瑜は、ある日、面前の場で孫権に対してひざまずいて臣下としての礼を取り、頭を下げました。

たとえ自分のほうが兄貴分だろうが、あくまでも自分が臣下の身。きっちりとけじめを示す必要があるのです。

それを見ていた古株の将軍達は、「ん?あの若僧は、周瑜様がひざまずいて頭を下げるほどの人物なのか!今まで俺たちは、なんて無礼な事をしていたのだろう…」と心を入れ替えて、やがて孫権の指示に従うようになったと言われています。

一癖も二癖もある古株の社員には、言葉で指摘をしたところで反感を買うだけです。

そんな時には、上司と部下のあるべき姿を自らの態度でもって示す事によって改めさせるという周瑜のエピソードです。

 

そして孫権が部下掌握の為に徹底したのは、『短所にはあえて目をつむり、長所に着目して褒めて伸ばす』という事でした。

孫権の部下に、周泰(しゅうたい)という寡黙で目立たない武将がいました。

孫権がある戦いで、その周泰を指揮官として任命した時、他の武将達はそんな存在感の薄い彼を馬鹿にして、指示に従おうとしなかったのです。

それを知った孫権は「このままでは戦に勝てないぞ…」と不安に思い、全軍を結束させる為に宴会を開き、その宴会の場で周泰を呼び寄せてこう言いました。

「今の私があるのは、そなたのおかげなのだ!」そして周泰に服を脱ぐように促します。

周泰が服を脱ぐと、その上半身には戦場で受けた数々の痛々しい傷跡が刻まれていました。

宴会に集まった武将達は「おいおい、いったい何事だ??」と驚きますが、それをよそ目に孫権はその傷跡を一つ一つ指差しながら、「この右腕と左足の傷跡は、どの戦場で受けた傷跡なのだ?誰と戦って受けた傷跡なのだ?よく頑張って乗り越えてきたな!」と、それぞれの傷跡の謂れを尋ねながら、そのたびに周泰の武勇と功績を褒め称えたのです。

その宴の翌日から、武将達は周泰の指示に従うようになったと言われています。

例えば職場の上司が、全体朝礼の時に部下を呼び寄せて「君は日頃から、朝のゴミ出しにトイレ掃除、お花の水遣り、見積書と注文書の作成、昼食時のお湯沸かしと食堂のテーブル水拭き、客先訪問に集金、営業車の洗車、営業会議資料の作成、倉庫整理、会社の戸締りといつも一生懸命に取り組んでくれて本当にありがとう。感謝しているよ!」と面前の場で褒め称えてくれるような感じです。何だか気恥ずかしいとは思いますが、上司が自分の頑張りをこんなにもよく見てくれているのだと思うと、きっとやる気が出てくるのではないでしょうか。

【連載11】三国志武将列伝 魏延文長 (蜀)

魏延は勇猛な武将であり、蜀の君主である劉備には凄く気に入られていて、名実ともに劉備の義兄弟の関羽張飛、また趙雲に並ぶ武将でした。

しかし、学者肌の諸葛亮とはどうも肌が合わなかったようです。

特に、諸葛亮の片腕だった幕僚の楊儀とは、常日頃から怒鳴り合うほど仲が悪かったと言われています。

実力がある武将なのに、奇抜な策を提案しても退けられたり、謀反の罪を着せられたり、何かと理不尽な役回りの多い人物なのです。


でも私は、そんな魏延の好きなエピソードがあります。
かつて劉備魏延に対し、蜀の武将としての心意気を問うたところ、「曹操が天下の兵を挙げて攻め寄せて来たならば、大王(劉備)ためにこれを防ぎ、曹操配下の将軍が10万の兵でやって来るならば、これを併吞する所存でございます!」と答え、劉備は大変感心したそうです。

つまり、社長が新入社員に対し、入社するにあたっての心意気を尋ねた際に、新人君が「少子高齢化が進み、それに伴い労働力の低下が懸念されて先行き不透明なこの御時世、たとえどんな困難が待ち受けていようとも、私は、この会社と社長を必ずや守り抜く所存でございます!」と決意表明するようなものです。こんな新人君、どこにいますか??

私は仕事で弱気になった時、この魏延の言葉を思い出して気持ちを奮い立たせています。

 

最後は、楊儀との確執などから謀反の罪を着せられて諸葛亮の計略で配下の武将に殺されてしまいますが、魏延は蜀という弱小の国を支えた悲運の名将なのです。

【連載10】偉大なる人物の共通点

世の中には、マイケルジャクソン氏や尾崎豊氏、そしてアップル社のスティーブ・ジョブズ氏など、亡くなられてからもなお、現代の人達に影響を与え続けている人物がいます。

『死せる孔明生ける仲達を走らす』という言葉があるのですが、そのような人物を喩えた故事成語として今に伝わっています。

 

西暦234年、三国志のハイライトとも言われている五丈原の戦いで、蜀軍率いる諸葛亮孔明(以下孔明)は、魏軍率いる司馬懿仲達(以下仲達)と対峙していましたが、国力に勝る仲達の持久作戦で、さすがの孔明も為す術がありませんでした。

有利な立場にある仲達としては、こちらがリスクを負ってまで戦わなくとも、持久戦にさえ持ち込めば、そのうちに相手は食糧が尽き、病を得ていた孔明も持ち堪えられずに撤退するだろうと読んでいたのです。

仲達の読みどおり、蜀軍の消耗は日に日に増していき、やがて孔明も、自らの死期が迫っている事を悟ります。

「このまま指揮官の私が死ねば、我が蜀軍はきっと仲達の思うがままにしてやられるだろう。どんなに頑張っても、魏軍には及ばない…悔しい。だからせめて最後の最後に、我が蜀軍の意地を見せてやるんた!」

そう呟くと、孔明は臣下にある計略を授けて息絶えます。

 

かたや仲達は、蜀に送り込んでいた間者(スパイ)からの知らせで孔明が死んだ事を知ると、「はいはい、待ってましたぁ〜!」と言わんばかりに、これまでの持久作戦からすかさず反転。

全勢力を挙げて猛追撃を始めたのです!

孔明のいない蜀軍など痛くも痒くもないわい。ダッハハハー!」

ところが、死んだはずの孔明が崖の上から突如として姿を現したのです!それはどう見ても孔明です。

そして劣勢だったはずの蜀軍は、反撃の構えを見せました。

度肝を抜かれて驚いた仲達は、「ま、ままままままままままままままままままじでぇぇ〜!!またしても孔明の計略なのか??これはどういう事だ!」と間者(スパイ)を問い詰めましたが、唖然としたまま「孔明は間違いなく亡くなった。。」としか答えない。

しかし、どう見ても孔明がこちらを見ている。

仲達は完全にパニックに陥り、慌てふためいて撤退しました。

 

ところが何故か、孔明率いる蜀軍は、追撃の構えを示したものの追ってはきません。やがて不思議に思った仲達は、それが孔明の木像だった事を後から知るのです。
この計略の目的は、魏軍を攻撃して勝つ事ではなく、劣勢である蜀軍を仲達の追撃から守り、全軍無事に撤退をさせる事にありました。

日頃から、孔明の計略に苦杯を舐め続けていた仲達は、木像にすら怯えててしまい、逃げてしまったのです。最後の最後に意地を見せた蜀軍。

つまり、孔明死してもなお仲達を走らせる!という事です。

 

偉大なる人物は、その死後も残された人達に影響を与えるという点で、三国志の時代から共通していると言えるのではないでしょうか。

また、この故事成語で誤解をして欲しくないのは、仲達が孔明よりも決して劣っていたという訳ではなく、仲達が他に類を見ない天下の名将であり、孔明と常に名勝負を繰り返していたからこそ、この故事成語が生まれたという事です。

 

何を以って自分が生きた証とするのか…三国志から考えさせられます。

【連載9】プロゴルファーの名前

プロゴルファーに小田孔明という選手がいます。私もスポーツニュースを見て名前は知っていました。

小田孔明選手の名前の由来ですが、お父様が三国志のファンで諸葛亮孔明にちなんで『孔明』と名付けたのだそうです。

また、プロゴルファーの片山晋呉選手のお祖父様は、孫権の国『呉』と司馬一族が三国を統一した国『晋』にちなんで『晋呉』と名付けたそうです。

実は私も、男の子ならば諸葛亮孔明から亮をとって『亮太』という名前を考えていた事があります。

後々、子供から名前の由来を尋ねられた時、親の想いが感じられる名前が良いですね。

【連載8】フライデーオベーション

新型コロナウィルス感染者への対応にあたる医療従事者に感謝の意を表すという事で、毎週金曜日の正午に医療従事者に向けて拍手をしようという取り組み(フライデーオベーション)が行われているという事を最近知りました。

それを見た時、私は職場での忘年会の出来事を思い出しました。

 

数年前、職場の業績が非常に良く、その年の忘年会は大いに盛り上がりました。

いよいよ忘年会もお開きの時間となり、社長が恒例の締めの挨拶をしたのですが、最後に社長はこう付け加えたのです。

「売り上げ目標達成に向け、会社の顔として最前線で動いてくれた営業部に、みんなから拍手を!」パチパチパチ…

この時私は、拍手をしながらも、何か抑えきれないモヤモヤを腹の中で感じていたのです。

 

三国志の話をしますと、劉備亡き後の蜀の国では、諸葛亮が指揮を執り、魏と戦う為の北伐を行っていました。

しかし蜀は、魏に比べると国力が圧倒的に劣り、地理的にも大変不便な場所にありました。

後方を支援する李厳などの食糧輸送担当者は、最前線で戦う兵士達の為に、蜀の桟道と呼ばれる険しい谷に架けれた橋を渡り、連なる山脈を越えて武器や食糧を届けていました。

大変な苦労を強いられていたと言われています。

もし食糧輸送が3日遅れた場合、輸送責任者には死刑が下されます。

最前線で命を懸けて戦う兵士達に感謝の意を示すのは勿論ですが、それ以上に、兵士達に滞りなく武器や食糧を届ける事がもっと重要なのです。それゆえに後方支援の人達も必死だったのです。

 

東日本大震災の時、私は通っていた教室の仲間達と一緒に募金をして、大した金額では有りませんでしたが、寄付をした事があります。

フライデーオベーションで感謝を示す事は勇気付けられて素晴らしいと思いますが、それをSNSやメディアを使って協力を呼びかけるのではなく、募金を呼びかけて寄付をするほうが医療従事者の為になるのではないかと思うのです。

コンビニなどに募金箱が置かれていれば、少しずつでも募金していきます。