My favorite Three Kingdoms

三国志に特化したコラムをやりたいという思いから開設しました。演義や正史に拘らず楽しみながらやっていきます。

【連載24】性格は変わらない

蜀の君主である劉備と共に、30年以上に渡って連れ添ってきた臣下に関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)という人物がいました。彼等は、お互いに義兄弟の契りを交わすほど深い絆で結ばれていて、幾度となく困難を乗り越えてきました。関羽は義に厚く、張飛は陽気なキャラで二人とも人気がありましたが、人間には長所もあれば短所もあるのが常であり、この二人についてもそれは例外ではありませんでした。

関羽は義に厚く部下想いで慕われていた反面、プライドが高いゆえに官僚など自分よりも立場が上の人物に対しては反攻的な態度を取る事がしばしばありました。

諸葛孔明はそんな関羽の性格を心得ていましたので、関羽のプライドを傷つけないように配慮をしていたのですが、孔明が考案した天下統一の戦略である『天下三分の計』の実現に向けて、劉備益州という領土を攻略した後には、関羽荊州という領土の統治を任せようと考えていました。

日頃から関羽の性格を案じていた孔明は、関羽に問いかけます。「もしも曹操孫権が同時に荊州に攻めてきたならば、関羽殿は如何いたす?」すると関羽はこう答えます。「そりゃあ両者ともぶっ潰しますよ!ダハハ!」孔明は語気を荒めて「それではそなたに荊州の統治を任せられん!『東は孫権と和して北は曹操を防ぐ』つまり、巨大な曹操と当たるには孫権と仲良くする事が絶対である!我々にとって荊州とは最重要拠点であり、そこを統治するそなたの責任は非常に重いが、最後まで荊州を守り抜いたならば、そなたが一番の功績となる。関羽殿、どうか肝に銘じて下され。」孔明関羽に警告をしました。ところが関羽は、荊州の統治を任されると次第に奢りが見え始めます。ある時、孫権の使者が関羽の元を訪れ、お互いの親睦を深めようという趣旨で関羽の娘と孫権の息子との縁談を持ちかけきました。しかし関羽は「虎の娘を犬の子などにやれぬ!」と言って孫権の使者を追い返したのです。つまり「どこの馬の骨かもわからない人物に、俺の可愛い娘をやれぬ!」という意味合いです。孫権は一国の君主で関羽よりも立場が上なのは明白であり、関羽はそれを承知の上で「どこの馬の骨かもわからない人物!」と言っているのです。私が孫権の立場ならば、関羽家庭裁判所で調停に出しているでしょう。

やがて同盟を結んでいた孫権とは険悪になり、関羽曹操孫権に挟撃されて、孫権の部下である呂蒙によって討ち取られ、最重要拠点であった荊州呂蒙に奪われてしまったのです。西暦219年の事でした。

懸念されていた関羽の性格が禍(わざわい)となったのです。

また張飛については、関羽とは逆に自分よりも立場が上の人物には愛嬌を振り撒いて可愛がられるのですが、部下に対しては非常に厳しく当たり散らすという典型的なパワハラ上司と化します。その性格は劉備から何度も指摘をされても治ることはなく、最後は部下に恨まれて殺されてしまうのです。

 

『三つ子の魂百まで』という言葉がありますように、幼い頃に過ごした環境によって育まれた性格は、友達や同僚や上司にどれだけ指摘をされようが、どんな信仰宗教に入ろうが、自己啓発セミナーに大金を注ぎ込もうが変わらないのです。たとえ変わったように感じても、また元に戻るのです。

私の職場には感情の波が非常に激しいM氏という先輩がいます。そのM氏は、さっきまで普通に会話をしていたのに、仕事の話をすると突然声を荒げ出す事があるです。さらに、貧乏ゆすりで足がカタカタ震えているのです。「え??何か失礼な事をしたのかな…」と悩むのですが、10分程してから再びM氏に話しかけてみると、何事も無かったかのようにニコニコしながら仕事の話を聞いてくれるのです。

他にも、M氏のその日の機嫌によって、同じ作業をしても許可が貰える時と貰えない時があります。

とても不条理で戸惑いましたが、M氏はずっとこんな感じなので、この性格は変わる事は無いんだなと受け入れるようにしています。

逆にM氏からすると、私が癖のある性格だなと感じながらも飲み込んで受け入れているのかもしれません。

ただ、関羽張飛のように、その性格が業務を遂行する上で禍(わざわい)するように感じるならば、また自分が激しいストレスを感じるのならば、相手も自分も性格は変わらないので、その組織を離れるという選択肢も必要と感じています。