My favorite Three Kingdoms

三国志に特化したコラムをやりたいという思いから開設しました。演義や正史に拘らず楽しみながらやっていきます。

【連載28】嘆いても仕方ない

西暦189年に漢王室の皇帝が崩御し、まだ幼い皇帝が擁立されると、何もできない幼い皇帝を宦官(かんがん)が利用して我がもの顔に振る舞い、宮中の秩序が乱れていきました。

この事態に袁紹(えんしょう)が「宦官の振る舞いを鎮圧しなければ、神聖なる漢王室が地に堕ちてしまう!」と全国各地の将軍に協力を呼びかけたのですが、世の中にはとんでもない人物がいるものです。

その時に参加した董卓(とうたく)という将軍が宮中を勝手に乗っ取り、権力を掌握してしまったのです。しかも董卓は、その幼い皇帝を殺して別の幼い皇帝を擁立するなど好き放題に振る舞いました。

袁紹としては、全国の将軍達に協力を呼びかけて宦官を始末して貰い、再び漢王室の秩序を取り戻すつもりが、参加した将軍に勝手に宮中を乗っ取られ、さらに皇帝を勝手に殺されるという全く有り得ない展開にされてしまったのです。

しかも董卓は宦官以上に勢いがあり、誰も簡単には手が出せませんでした。

そんなある時、宮中の文官である王允(おういん)という人物が他の文官達を自分の還暦祝いに招待しました。

慕われていた王允の元には沢山の文官達が集まり、お酒も入って和やかな雰囲気に包まれていましたが、宴もたけなわの頃、王允はこう切り出しました。「皆の者、もしかすると本日はわしの還暦祝いではなく命日になるやもしれない。我が偉大なる漢王室はこれまで400年間に渡り栄えてきたが、それが宦官に操られて乱れ始め、しかも今では董卓という獣物みたいな人物に掌握されてしまった。もはや風前の灯火である。我々は今まで漢王室からたくさんの恩恵を授かり生きてきたのたが、もはやどうする事もできない。実に嘆かわしい。ああ嘆かわしい…あうぅぅ〜。」

招待された文官達も、これまでずっと自分が仕えてきた漢王室の今の有り様を思うと嘆き悲しみ、一斉に声をあげて泣き始めました。

ところが、その宴会に参加していた曹操だけが一人で声高らかに大笑いしていたのです。

他の文官達が一斉に曹操を睨みつけました。

「おい貴様!偉大なる漢王室がこのような状況の時に大笑いするとは何事だ!悲しくないのか?無礼にも程があるぞ!!」すると曹操は、「それでは聞こう。そうやってメソメソと嘆き悲しんだところで漢王室は元に戻るのか?董卓を倒す事はできるのか?私は今の漢王室の状況を笑っているのではなく、皆さんのような立派な官僚達が何もせずに、ただ子供のようにメソメソと泣いているのが可笑しくてたまらないのだ。そうやって嘆き悲しまなくても、この俺が董卓に取り入って近づき、隙を見て始末してやるさ!」

そして曹操は、失敗はしましたが実際に行動に移しました。しかし曹操の行動は後に自分自身の糧になるのです。

 

人生はどんなに勉強をしても、真面目に仕事をしても、困難な出来事に遭遇します。信じていた人に裏切られる事もありますし、逆に誰かを裏切ってしまう事もあるでしょう。

しかし、そんな時にいつまでも嘆き悲しんでいても仕方がありません。

曹操のように早く気持ちを切り替えて行動する事が重要なのです。

今の日本も三国志の幕開けの時代と同じように、今まで当たり前だった事が決して当たり前では無くなってきています。

日本政府も漢王室のように世の中の流れに対応できていません。しかし、だからと言って「今の社会が悪い!日本政府が悪い!」と嘆いてばかりではなく「自分の人生は自分で責任を持つんだ!」という気持ちで生きていくべきではないでしょうか。これは常に私自身にも言い聞かせています。

【連載27】司馬懿の戦略から学ぶ

西暦234年、三国志のハイライトとも言われている五丈原の戦いでは、魏軍率いる司馬懿(しばい)と蜀軍率いる諸葛亮(諸葛孔明)が対峙しました。

この戦いに至るまでに、司馬懿は幾度も諸葛亮の作戦に嵌まり兵士達を犠牲にしてきましたが、対する諸葛亮も魏軍に対して致命的な打撃を与えることはできませんでした。

そこで司馬懿は、今の自分を取り巻く状況と相手の状況を冷静に分析してみたのです。

「蜀軍は遠征をしながら国を挙げて攻めてきているのに対し、我が魏軍は遠征して来る蜀軍の侵攻を防ぐのが目的である。険しい山道を遠征して攻めて来る蜀軍と、それを待ち受ける我が魏軍とでは明らかに我々のほうが有利であるが、いざ戦うと諸葛亮の作戦に手こずってしまう。しかし、蜀軍は険しい山道を遠征して来ているという事は、食糧の調達がきっと困難なはずである。その為に、これまで我々に致命的な打撃を与えることも出来ずに撤退をしているのだ。指揮官の諸葛亮にとってそれが一番の悩みの種であり、とにかく戦を仕掛けて我々と早く決着をつけないと食糧が尽きてしまい撤退しなければならなくなる。まさにこれが蜀軍の弱点である!つまり、我々はわざわざリスクを負って攻めに行かなくても、陣営に篭って持久戦を徹底さえすれば、やがて蜀軍は食糧が尽きて撤退せざるを得なくなり、我々は無傷のままで勝利を収める事が出来るのだ。攻めるだけが戦ではないのさ!」

そこで指揮官の司馬懿は全軍に対し、何があっても絶対に攻めに出るな!と徹底させました。

こうなると、さすがの諸葛亮も為す術がありません。何とかして魏軍を攻めに誘い出そうと兵士達に挑発をさせます。

司馬懿の臆病者!卑怯者!それでも男か?弱虫か?悔しかったら正々堂々と戦え!あっかんべー!」

毎日のように蜀軍から挑発されると、魏の将軍達は屈辱で頭に血が上り、何度も司馬懿に対し出撃させてくれと願い出ますが、司馬懿は全く相手にしません。

すると諸葛亮から贈り物が届きました。開けてみると女性用の着物が入っていたのです。一緒に入っていた手紙には、こう書かれていました。「女々しい君はもう男じゃないから、この着物を着てごらん!ほら、とってもお似合いよ!うふふっ!」戦場に生きる男として、これ以上の侮辱はありません。部下達が殺気立ち「あの野郎!!もう許せん!行くぞぉー!」と喚き散らすのを司馬懿は冷静になだめ、その女性用の着物を着て全軍の前で堂々と見せびらかしたのです。

このような諸葛亮の挑発にも司馬懿は全く動じませんでした。

そうしているうちに諸葛亮は病死をしてしまい、蜀軍は撤退せざるを得なくなったのです。

諸葛亮は蜀軍の食糧不足だけでなく自らの死期が迫っていた事もあり、司馬懿に対して必死に挑発を続けるしかないほどに追い詰められていたのです。

 

もし自分が司馬懿の立場なら、自分の信念を貫く為に、これほどの屈辱を耐え凌いで何かを成し遂げる事ができるのだろうか。

全軍の前で女性の着物姿を見せびらかした司馬懿は、今に例えると、上司から「君のような女々しい男はこの服がお似合いだ。あはは!」と言われながらもセーラー服姿で出勤するぐらいの度胸があるのではないかと思います。

指揮官である諸葛亮の行動を分析して蜀軍の弱点を見抜き、自軍の強みを活かした持久戦を徹底させ、蜀軍からの侮辱にも耐え抜いて諸葛亮を破った司馬懿の戦略は、今後自分が何か行動する上で学ぶべき事が沢山あります。

その後も司馬懿は幾多の困難を耐え凌ぎ、長い三国志の中で最後に笑った人物なのです。

(諸葛亮ファンとしては悔しいですが…笑)

【連載26】鶏肋(けいろく)

鶏肋(けいろく)』という三国志故事成語の由来については、以前【連載22】でも紹介させて頂きました。一部修正しておさらいします。

西暦219年、曹操は定軍山(ていぐんざん)の戦いで劉備と争っていましたが、諸葛孔明を配下に得た劉備の勢いに押されて苦戦を強いられていました。追い詰められた曹操は、食事中もずっと戦況の事が頭の中から離れずにいたのですが、そんな曹操の下に部下が指示を仰ぎにやってきました。「殿、本日の伝令を聞きに参りました。宜しくお願い致します。」

すると曹操は食事をしながら上の空でこう呟いたのです。「鶏肋鶏肋…(けいろく、けいろく)」

どうやら曹操は、好物の鶏がら出汁のスープを食べていたようです。

部下は何の事だか訳がわかりませんでしたが、全軍にこの伝令を伝えなければいけません。

「皆の者、鶏肋だ!鶏肋だ!僕にはさっぱり意味がわからないけど鶏肋なんだ!」

その伝令を聞いた楊修(ようしゅう)という人物は一瞬戸惑いましたが、やがてなるほどと頷くと「直ちに撤退の準備をせよ!殿は劉備との戦を取りやめて撤退を考えておられるのだ。」と指示を出して、自らも撤退の準備を始めました。周囲の人が不思議に思い、何故そのように考えるのかと楊修に尋ねたところ、「鶏肋とは鶏がら、つまりスープの出汁に使われる鶏の肋骨である。鶏の肋骨の周りには僅かに肉が付いていて、それをシャブって食べるとそれなりに美味しいのだが、それでは腹は満たされない。鶏肋は捨てるにはもったいないが、かと言ってそれを食べたところで大したこともない。つまり、この劉備との争いに勝てないのは惜しいが、無理に争いを続けて勝ったところで得られる物も少ない。だから劣勢の今が撤退の潮時という事なのである。」と持論を展開しました。

この楊修の勝手な振る舞いが曹操の怒りを買い処刑されてしまうのですが、結果的に楊修の判断は的を得ており、後に曹操は楊修を処刑してしまった事を後悔するのです。

 

鶏肋とは、『捨てるには勿体無いけれども、取っておいてもあまり意味が無いもの』という解釈になります。

例えば買い物に行ったり外食をすると、会計の時にポイントカードを貰う事がありますが、ふと気が付けば、財布の中がポイントカードだらけになっているなんて事はないでしょうか?

そして、そのポイントカードを見てみると有効期間が今月末とか今週末など色々あり、「このまま有効期間が切れて使えなくなると勿体無い!」という理由で、特に必要が無い物を購入してしまったり、大して食べたくもないのにラーメン屋に入った事がありました。

その時は得した気分になりますが、長い目で見ると無意識のうちに無駄な買い物をしている事になるのです。

つまり、ポイントカードとは消費者が得をするように思わせて購買意欲を掻き立たせ、無意識のうちに余分な物まで購入させるという店側の巧みな戦略と言えます。
この『買い物』という行為一つとっても、選択肢の主導権を他者に奪われてしまっています。

 

自分にとって本当に必要な物は何なのか、また本当に大切な人は誰なのかを、他者に惑わされずに自分主体でしっかりと見極めるべきであるという事を、私はこの『鶏肋』という言葉から教わりました。

【連載25】組織に属するメリットとは?

重要な業務や複雑な業務というのは、要領の良い優秀な人物に任される事が多いと思います。その方が上司も楽で安心だからです。もちろん新人や関係のない他の部署の人間にそのような業務を任せる訳にはいきません。しかし、安心して重要な業務を任せていた人物に何かしらの問題があった場合、組織全体がその人物によって振り回されてしまいます。つまり、『その人物に聞かなければわからない』『その人物にしかできない』という状況になる為、その人物の体調や機嫌次第で業務の流れに影響が出てしまうのです。そして私は前々からこの状況に悩まされています。

私はある業務を M先輩から引き継ぐようにと上司から指示を受けています。その業務は会社ではM先輩しか把握していません。しかしM先輩は、恐らく傍目から見ても感情の起伏が非常に激しく、指示も威圧的で内容がまともに私の頭の中に入ってきません。理解ができないので質問をすると「俺は説明をしたのに、どうして人の話しを聞かないのだ!」との一点張り。やがて期日も迫ってくるので結局はそのM先輩が自分でする羽目になり、その状況をM先輩は上司に報告。そして今度は上司から「どうして君は言われた事もできないのだ!」と叱責されるという、まさに『華麗なる負のスパイラル』に陥っています。

これは私からの視点ですので、私寄りの言い分にはなってしまいますが、業務の流れに良くない影響が出ているのは明らかです。

そしてM先輩は以前からこのような状態であり、今後も変わることはありません。

 

かつて曹操には荀彧(じゅんいく)という名参謀がいました。長年に渡って曹操の右腕として献策し続け曹操の覇業を支えてきましたので、もはや荀彧は曹操にとって無くてはならない存在でしたが、ある日曹操は荀彧にこう問いかけたのです。

「君に代わってわしの為に策を立てられるのは誰だ?」すると荀彧は二人の人物を挙げますが、曹操は他の優秀な人物にも、荀彧と並ぶ官職になるよう推挙していました。

その後、荀彧は曹操と方向性の違いから反りが合わなくなり曹操によって自殺に追い込まれました。自身の最高の右腕として頼りにしていた人物であっても、組織として不都合な存在と判断すれば容赦なく排除したのです。

このように曹操は、ある人物に何かしらの問題があった場合、その人物によって組織全体が振り回されて業務が滞ることの無いように、代わりに同じ役割をこなせる人物を何名か用意していました。

新しい人材を採用するだけでなく、それ相応の人物を同じ部署内から推挙という形で昇格させるのです。このような組織強化の取り組みに関しては、魏の曹操は蜀の劉備に比べると遥かに上であり、劉備が亡くなった後の蜀は人材不足に悩まされ、諸葛孔明ひとりが重要な業務を全て背負い込み疲弊してしまう事になるのです。

 

「私が居なくても他に代わりはいる。」と言えばネガティブに聞こえるかもしれません。もちろんそのまま仕事を外されてしまうと言うリスクはありますが、他に誰も代わりがいなければ全てを背負い込んで疲弊してしまいませんか?

代わりがいなければ、どんなに疲弊しようが関係ありません。顧客がいる限り背負い込むしかないのです。

つまり、組織に属する人間にとって『代わりがいる』という事こそが一番のメリットであり、経営者は曹操のように先を見据えてこの仕組みを構築していく事が重要な役目なのです。

【連載24】性格は変わらない

蜀の君主である劉備と共に、30年以上に渡って連れ添ってきた臣下に関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)という人物がいました。彼等は、お互いに義兄弟の契りを交わすほど深い絆で結ばれていて、幾度となく困難を乗り越えてきました。関羽は義に厚く、張飛は陽気なキャラで二人とも人気がありましたが、人間には長所もあれば短所もあるのが常であり、この二人についてもそれは例外ではありませんでした。

関羽は義に厚く部下想いで慕われていた反面、プライドが高いゆえに官僚など自分よりも立場が上の人物に対しては反攻的な態度を取る事がしばしばありました。

諸葛孔明はそんな関羽の性格を心得ていましたので、関羽のプライドを傷つけないように配慮をしていたのですが、孔明が考案した天下統一の戦略である『天下三分の計』の実現に向けて、劉備益州という領土を攻略した後には、関羽荊州という領土の統治を任せようと考えていました。

日頃から関羽の性格を案じていた孔明は、関羽に問いかけます。「もしも曹操孫権が同時に荊州に攻めてきたならば、関羽殿は如何いたす?」すると関羽はこう答えます。「そりゃあ両者ともぶっ潰しますよ!ダハハ!」孔明は語気を荒めて「それではそなたに荊州の統治を任せられん!『東は孫権と和して北は曹操を防ぐ』つまり、巨大な曹操と当たるには孫権と仲良くする事が絶対である!我々にとって荊州とは最重要拠点であり、そこを統治するそなたの責任は非常に重いが、最後まで荊州を守り抜いたならば、そなたが一番の功績となる。関羽殿、どうか肝に銘じて下され。」孔明関羽に警告をしました。ところが関羽は、荊州の統治を任されると次第に奢りが見え始めます。ある時、孫権の使者が関羽の元を訪れ、お互いの親睦を深めようという趣旨で関羽の娘と孫権の息子との縁談を持ちかけきました。しかし関羽は「虎の娘を犬の子などにやれぬ!」と言って孫権の使者を追い返したのです。つまり「どこの馬の骨かもわからない人物に、俺の可愛い娘をやれぬ!」という意味合いです。孫権は一国の君主で関羽よりも立場が上なのは明白であり、関羽はそれを承知の上で「どこの馬の骨かもわからない人物!」と言っているのです。私が孫権の立場ならば、関羽家庭裁判所で調停に出しているでしょう。

やがて同盟を結んでいた孫権とは険悪になり、関羽曹操孫権に挟撃されて、孫権の部下である呂蒙によって討ち取られ、最重要拠点であった荊州呂蒙に奪われてしまったのです。西暦219年の事でした。

懸念されていた関羽の性格が禍(わざわい)となったのです。

また張飛については、関羽とは逆に自分よりも立場が上の人物には愛嬌を振り撒いて可愛がられるのですが、部下に対しては非常に厳しく当たり散らすという典型的なパワハラ上司と化します。その性格は劉備から何度も指摘をされても治ることはなく、最後は部下に恨まれて殺されてしまうのです。

 

『三つ子の魂百まで』という言葉がありますように、幼い頃に過ごした環境によって育まれた性格は、友達や同僚や上司にどれだけ指摘をされようが、どんな信仰宗教に入ろうが、自己啓発セミナーに大金を注ぎ込もうが変わらないのです。たとえ変わったように感じても、また元に戻るのです。

私の職場には感情の波が非常に激しいM氏という先輩がいます。そのM氏は、さっきまで普通に会話をしていたのに、仕事の話をすると突然声を荒げ出す事があるです。さらに、貧乏ゆすりで足がカタカタ震えているのです。「え??何か失礼な事をしたのかな…」と悩むのですが、10分程してから再びM氏に話しかけてみると、何事も無かったかのようにニコニコしながら仕事の話を聞いてくれるのです。

他にも、M氏のその日の機嫌によって、同じ作業をしても許可が貰える時と貰えない時があります。

とても不条理で戸惑いましたが、M氏はずっとこんな感じなので、この性格は変わる事は無いんだなと受け入れるようにしています。

逆にM氏からすると、私が癖のある性格だなと感じながらも飲み込んで受け入れているのかもしれません。

ただ、関羽張飛のように、その性格が業務を遂行する上で禍(わざわい)するように感じるならば、また自分が激しいストレスを感じるのならば、相手も自分も性格は変わらないので、その組織を離れるという選択肢も必要と感じています。

【連載23】未曾有の事態

2020年の日本は、新型コロナウィルス感染拡大という歴史上経験した事のない未曾有の事態に陥っています。東大京大、早慶等の一流大学をトップクラスの成績で卒業した超エリート集団の官僚でさえ、これまでの前例が無い為に何が最善の策なのかわからずに手探り状態なのです。

我々国民は、決して安くはない税金を義務として納めていますので、官僚は今回のような未曾有の事態には国民が安全安心して暮らせるような対策をテキパキと打ち出す必要があるのは当然なのですが、実際のところ新型コロナ関連の対策では、安倍総理の対応が毎回のように後手後手になっているという印象は否めません。ただ、総理大臣という国のトップの人間は、国の未来、経済、環境、国益等、あらゆる事柄を誰よりも高い位置から見渡し、大局を見極めて判断し、決断を下さなければいけないのです。簡単な事ではありません。もしその判断を見誤った場合には、その影響が国家の存亡に関わると言っても過言では無いからです。

 

西暦208年、曹操張繍(ちょうしゅう)、袁術(えんじゅつ)、呂布(りょふ)、袁紹(えんしょう)、劉琮(りゅうそう)といった群雄を打ち破り、いよいよ『呉』の孫権を倒して天下統一を狙おうとしていました。三国志で最も有名な『赤壁の戦い』です。当時の孫権は、二代目君主である兄の孫策から引き継がれて間もない若干19歳の若僧で、まだ何も実績がありません。しかし『呉』の国内では、巨大な勢力を持った曹操が攻めてくるという未曾有の事態に陥っていました。

「おいおい、あの曹操に勝てる訳がない!民衆を戦火に巻き込まない為にも大人しく曹操に降伏するべきだ!」いう文官達の意見と「先代から受け継いだこの豊かな土地と民衆を、易々と曹操に差し出してどうするんだ!最後まで曹操と抗戦をするべきである!」という武官達の意見で分かれました。若き君主である孫権は大いに悩みます。君主は大局を見極めて判断し、決断を下さなければいけません。君主の決断がそのまま国家の存亡に関わってくるからです。しかも虎視眈々と天下統一を狙っている曹操は待ってはくれません。そんな時、孫権周瑜(しゅうゆ)と魯粛(ろしゅく)という最も信頼している参謀から進言を受けます。

「殿、劉備と同盟を結んで曹操と戦うのです。文官武官を交えた会議の場で曹操と戦う意志を堂々と示して下さい!」

さらに彼等は、曹操の弱点を分析して戦っても十分に勝算がある事を説きました。

曹操軍は不慣れな土地に赴いている為に疫病が蔓延している。

曹操軍は水上戦に慣れていないので我が軍はそれに持ち込めば有利に戦える。

曹操軍は袁紹軍や劉琮軍など降伏させた軍が大半を占めるので全体の統率が取れていない。

これにより孫権の迷いは完全に吹っ切れて曹操と戦う決断を下し、そして周瑜魯粛の策により曹操軍を撃破して未曾有の事態を脱する事ができたのです。

 

新型コロナウィルス感染拡大という未曾有の事態から国民を守るのは、総理大臣の大局を見極めた決断にかかっています。それには官房長官菅義偉氏や首相補佐官和泉洋人氏といった参謀の策にも期待せずにはいられません。

【連載22】社長に嫌われたらお終い

曹操に仕えていた人物に、楊修(ようしゅう)という文官がいました。彼はとても頭の良い人物で、その才能を曹操に気に入られて採用されました。ところが、頭の回転が早過ぎるというのは良くないのか、あまり場の空気が読めない人なのか、そもそも彼の性格なのかはわかりませんが、その楊修という人物は、曹操が意図する事を自分の解釈で先読みしては勝手に部下に指示を出して、自らの才能をアピールするきらいがありました。

もちろん本人には悪気は無く、組織の為を思ってしていた事だとは思います。しかし曹操にとっては常に腹の中を探られているようで心中穏やかではないようでした。

西暦219年、曹操は定軍山(ていぐんざん)の戦いで劉備と争っていましたが苦戦を強いられていました。かつては曹操にとって劉備という人物は、全く足元にも及ばない虫けら同然のような存在でしたが、劉備諸葛孔明という人物を得てからはグングンと勢力を伸ばしていき、次第に曹操に迫ってきていたのです。曹操はとても悩んでいました。

劉備の奴め…この俺様に刃向かいやがって!」食事中もずっと戦況の事が頭の中から離れません。そんな時、部下が曹操の側へやってきました。「殿、本日の伝令を聞きに参りました。宜しくお願い致します。」

すると曹操は食事をしながらボンヤリとこう呟いたのです。「鶏肋鶏肋…(けいろく、けいろく)」

部下は何の事だか訳がわかりませんでしたが、全軍にこの伝令を伝えなければいけません。「皆の者、鶏肋だ!鶏肋だ!僕にはさっぱり意味がわからないけど鶏肋だ!」

その伝令を聞いた楊修は一瞬戸惑いましたが、やがてなるほどと頷くと「直ちに撤退の準備をせよ!殿は劉備との戦を取りやめて撤退を考えておられるのだ。」と言い、自らも撤退の準備を始めました。周囲の人が不思議に思い、何故そのように考えるのかと楊修に尋ねたところ、「鶏肋とは鶏がら、つまり鶏の肋骨である。鶏の肋骨の周りには僅かに肉が付いていて、それをシャブって食べるとそれなりに美味しいのだが、それでは腹は満たされない。鶏肋は捨てるにはもったいないが、かと言ってそれを食べたところで大したこともない。つまり、この劉備との争いに勝てないのは惜しいが、無理に争いを続けて勝ったところで大したこともない。だから劣勢の今が撤退の潮時という事なのである。」と持論を展開しました。

その説得力のある解釈に部下達も感心し、全軍が撤退の準備を始めたのです。

曹操が食事を済ませて書物を読んていると、周囲が騒がしくなってきたので不審に思い、曹操は側近の者に尋ねました。「一体何事だ??」「撤退の準備を始めております。殿が全軍にそのように伝令を出したのでは?」「は??俺はそんな伝令を出した覚えはないぞ!誰だ!そのような流言を流した者は!」「どうやら楊修との事でございます。」「あいつはいつも俺の意図を汲みとっているようなつもりになっておるが、実際は何もわかっておらん!流言を流して全軍の士気を乱したとして、あの者を捕らえて斬れ!!」曹操は日頃から楊修に対しての不信感が積もっていた事もあり、ついに楊修を処刑してしまいました。

また他にも曹操には、荀彧(じゅんいく)という優秀な軍師がついていました。彼もその才能を曹操から気に入られて仕えていましたが、やがて方向性の違いから異議を唱えるようになり、最後には曹操によって自殺に追い込まれたと言われています。

楊修と荀彧という、才能に恵まれて非常に優秀だったはずの人物が、何故このような結末を迎える事になってしまったのか。

この二人に共通して言えるのは、組織のトップから煙たがられてしまったという事です。

 

うちの会社でも、社長に気に入られるように振る舞う事を上司から要求されます。

業務上の事ならまだわかるのですが、以前は上司から「有給休暇や残業代を申請すれば社長からの印象が悪くなるから控えろ!」と取り下げられた事がありました。今では社長も考えを改めてくれたので、そのような事はありませんが、会社員は社長の考えが絶対なのです。

『嫌われる勇気』という本がありますが(私は読んでいません)これは社長に対しては例外なのです。たとえ部下・同僚・上司に嫌われたとしても、社長にさえ好かれていればやっていけるのが組織なのです。逆に言えば、会社員は社長に嫌われたらお終いと言っても過言ではありません。

三国志のエピソードにもありますように、たとえ優秀な人物でも相性が合わずに社長に嫌われたらお終いなのです。その時は、理不尽な目に遭う前に転職という選択肢も視野に入れておく必要があるように思います。