My favorite Three Kingdoms

三国志に特化したコラムをやりたいという思いから開設しました。演義や正史に拘らず楽しみながらやっていきます。

【連載12】孫権と周瑜の部下掌握法

三国志の呉の君主である孫権と、その参謀を務めていた周瑜(しゅうゆ)の部下掌握法について考察をしてみます。

 

まず周瑜ですが、彼は孫権のお兄さんで呉の二代目の君主であった孫策という人物と深い親交があり、周瑜孫策は苦楽を共にして、呉の国の礎を築いていきました。

そんな周瑜は、孫権にとっても兄貴のような存在だったのです。

ある日、孫策が何者かに暗殺されてしまい、孫権が若干19歳で急遽孫策に代わり三代目として君主を引き継ぐ事になりました。

ところが当初孫権は、若くて経験も浅かった為に、先代の君主から仕えてきた古株の将軍達に軽く見られて、なかなかリーダーシップを取る事ができませんでした。

古株の将軍達からすれば、年齢も経験も自分達の方が上なのに、この若僧に頭を下げるなんて面白くないという気持ちがあったのでしょう。

その様子を日頃から見ていた周瑜は、ある日、面前の場で孫権に対してひざまずいて臣下としての礼を取り、頭を下げました。

たとえ自分のほうが兄貴分だろうが、あくまでも自分が臣下の身。きっちりとけじめを示す必要があるのです。

それを見ていた古株の将軍達は、「ん?あの若僧は、周瑜様がひざまずいて頭を下げるほどの人物なのか!今まで俺たちは、なんて無礼な事をしていたのだろう…」と心を入れ替えて、やがて孫権の指示に従うようになったと言われています。

一癖も二癖もある古株の社員には、言葉で指摘をしたところで反感を買うだけです。

そんな時には、上司と部下のあるべき姿を自らの態度でもって示す事によって改めさせるという周瑜のエピソードです。

 

そして孫権が部下掌握の為に徹底したのは、『短所にはあえて目をつむり、長所に着目して褒めて伸ばす』という事でした。

孫権の部下に、周泰(しゅうたい)という寡黙で目立たない武将がいました。

孫権がある戦いで、その周泰を指揮官として任命した時、他の武将達はそんな存在感の薄い彼を馬鹿にして、指示に従おうとしなかったのです。

それを知った孫権は「このままでは戦に勝てないぞ…」と不安に思い、全軍を結束させる為に宴会を開き、その宴会の場で周泰を呼び寄せてこう言いました。

「今の私があるのは、そなたのおかげなのだ!」そして周泰に服を脱ぐように促します。

周泰が服を脱ぐと、その上半身には戦場で受けた数々の痛々しい傷跡が刻まれていました。

宴会に集まった武将達は「おいおい、いったい何事だ??」と驚きますが、それをよそ目に孫権はその傷跡を一つ一つ指差しながら、「この右腕と左足の傷跡は、どの戦場で受けた傷跡なのだ?誰と戦って受けた傷跡なのだ?よく頑張って乗り越えてきたな!」と、それぞれの傷跡の謂れを尋ねながら、そのたびに周泰の武勇と功績を褒め称えたのです。

その宴の翌日から、武将達は周泰の指示に従うようになったと言われています。

例えば職場の上司が、全体朝礼の時に部下を呼び寄せて「君は日頃から、朝のゴミ出しにトイレ掃除、お花の水遣り、見積書と注文書の作成、昼食時のお湯沸かしと食堂のテーブル水拭き、客先訪問に集金、営業車の洗車、営業会議資料の作成、倉庫整理、会社の戸締りといつも一生懸命に取り組んでくれて本当にありがとう。感謝しているよ!」と面前の場で褒め称えてくれるような感じです。何だか気恥ずかしいとは思いますが、上司が自分の頑張りをこんなにもよく見てくれているのだと思うと、きっとやる気が出てくるのではないでしょうか。